歴史人物の「顔つき」を推定してみる
■まず、頼朝はそんな顏だったのか?
この肖像画を見た、ある程度の年齢(?)の方々は「源頼朝だ!」と答えるでしょう。そう、その年代の人たちの教科書には、鎌倉幕府初代将軍・源頼朝といえば、この肖像画が載っていたはずです。
写真が発明される前の昔の人の顏ってわからないですよね。最初に答えを言えば、この肖像画、現在では足利直義(尊氏の弟)のものというのが定説だそうです。
京都神護寺所蔵「伝源頼朝像」。現在は足利直義とされている。
鎌倉の源氏山公園には源頼朝のブロンズ像があります。鎧を着ているのがいいですね。昔から、偉い人の肖像画はたいてい衣冠束帯(公家の装束)。朝廷の官位を持つことがステータスだったので、みな正装で肖像画に納まりたいのでしょう。でも、武士だったら、やはり、こんなふうに折烏帽子に鎧や直垂という姿を残して欲しかった。
源氏山公園の源頼朝ブロンズ像
雨にも負けず、風にも負けず、日夜鎌倉の街を見守っています。
でも、頼朝さんて、こんな顔だったんですかね? 私は、やはり神護寺の「伝源頼朝像」のイメージが強いので、どうしてもしっくり来ないんですよね。で、このブロンズ像のモデルが知りたかったのですが、ネットでざっと検索しただけでは分かりませんでした。
さて、本当の頼朝さんはどんな顔をしていたのか? この疑問に応えてくれるのが、甲斐善光寺蔵の「源頼朝坐像」
詳しい経緯は省きますが(詳しくはコチラ)、この木造はどうやら、頼朝の死後、妻である政子が造らせた可能性が高いのです。となれば政子が頼朝を偲んで、「これなら私の夫、頼朝の面影があるわ」と太鼓判を押したようなもの。いわゆる肖像画のように飾った、というか格好つけたようなところがなく、リアルな人間、源頼朝を感じさせます。
■では、実朝は?
さて、それではいよいよ今回の本題、「源実朝ってどんな顔?」ですが、実朝の肖像画といえば一般的にはこれ。
源実朝像(『國文学名家肖像集』収録)
どうですか? 私は好きじゃないし、イメージじゃないですね。実朝は才能あるナイーブな歌人で28歳の若さで死んだ青年だったんです。なのに、これではただのオッサンじゃないですか。で、私は調べたんです。こんなはずじゃない、と。すると、ちゃんと出てきました。前述の「源頼朝坐像」とともに、甲斐善光寺に「源実朝坐像」があったんです。
甲斐善光寺所蔵・木造源実朝坐像
どうです? 『國文学名家肖像集』の実朝よりは青年感がありますよね。
アップで見てください。
どこか頼朝坐像とも似ていて、親子の血筋を感じます。令和元年度に修理・分析を行った結果、制作時期も頼朝坐像とほぼ同じ、ということは生前中はありえないとして、死の直後、政子が「これなら我が息子、実朝と生き写しだわ」とうなずいたはずです。
そして、こちらをご覧ください。👇
こちらは、私が『春を忘るな』を書くにあたって、実朝のイメージを瞼に描くため、ネット中を検索して探し当てた源実朝の肖像です。(京都国立博物館蔵 重要文化財「公家列影図」の部分 鎌倉時代 13世紀) 武家の棟梁である将軍なのに「公家列」に違和感あるやもしれませんが、実朝は右大臣にもなった立派な公家でもあるのです。
どうですか? 甲斐善光寺所蔵・木造源実朝坐像と似ていると思いませんか? 刑事裁判では、たとえ状況証拠であっても、二つの物証に共通点があれば有力な証拠として採用されます。この京都国立博物館蔵「公家列影図」の実朝は、実際の実朝の顏に近い、と「私は」確信しています。そして、この実朝をイメージしながら、源実朝暗殺の謎を解く小説『春を忘るな』を書きました。
ご興味ある方は、ぜひ読んでみてください➡ 小説『春を忘るな』