1.鎌倉のこと

中世鎌倉の港湾遺跡をドローンで空から撮影しました! ―『春を忘るな』の周辺(7)―

現存する日本最古の港湾遺跡をドローンで空撮

 このブログでは、随所で「現在の鎌倉には鎌倉時代の建造物がほとんど無い」と申し上げてきました。山中の「切通し」や「やぐら」には中世の痕跡があるのですが、神社仏閣の建物は、そのほとんどが江戸時代の再建です。ところが、現存する日本最古(中世)の港湾遺跡が鎌倉にあるのです! その名も和賀江島。「島」とは称していますが石造りの港湾遺跡です。


和賀江島は、材木座海岸の逗子マリーナ寄り(写真の右下)

『吾妻鏡』の貞永元年(1232年)七月十二日の条には次の通り記されています。
「(前段略)今日、勧進聖人往阿弥陀仏の申請に就いて、舟船着岸の煩い無からんが為、和賀江嶋を築くべきの由と。武州(注)殊に御歓喜、合力せしめ給う。諸人また助成すと
  注:武州は北条泰時

 貞永元年(1232年)は実朝暗殺事件の起きた建保七年(1219年)から13年後のことですが、「舟船着岸の煩い」については小説『『春を忘るな』の実朝渡宋計画とおおいに関わりがありますので、これについては後述します。

■ドローンによる空撮動画

 まずは、和賀江島の空撮映像をご覧ください。
 和賀江島の北側に3隻の漁船が停泊していることに注目してください。和賀江島を説明する書物等では「江戸時代まで港湾として使われていた」と紹介されていますが、このように現在でも使われています。私がこの現場に来た時は1隻だけ停泊していましたが、その後2隻が漁から帰ってきて係留されました。最も水位の低くなる大潮の干潮時でも漁船が停泊できる水深が維持されているということです。
(ぜひ、音を出して、全画面[ ]でご覧ください!)



■築港当初はどんな形状だったのか?


江戸時代、明和年間(1764~1772年)の和賀江島の復元想像図(国土交通省東京湾航路事務所作成)

「江戸時代には、このような姿になっていたのではないか」という想像絵図です。石垣を組んで整えた構造物が台風の波浪、地震等で崩れ、現在のような形状になったのではないか、という推測をもとに描かれていますが、建造当時(鎌倉時代)の姿はよくわかっていません。『吾妻鏡』では貞永元年(1232年)七月十五日の条に「今日、和賀江嶋を築き始む」(原文はコチラ)とあり、貞永元年(1232年)八月九日の条に「和賀江嶋その功を終ゆ」(原文はコチラ)とあります。往阿弥陀仏が申請してから三日後に工事が始まり、わずか一月足らずの工事期間で築港されています。石材の玉石から判断して、酒匂川河口や伊豆半島(後日、大半は真鶴、根府川の海岸の石というご指摘もいただいた)から船で運んで築かれたと考えられています。申請から工事完了までの期間から判断して、私は、船で運んだ玉石を海面から落とし込むだけの工法だったのではないかと思っています。



玉石の大きさは不揃いですが直径30㎝程でしょう。


『新編鎌倉志』和賀江島
 絵の上が南ですので通常の地図とは逆ですが、右下から南西に突き出している岬状のものが「和賀江島」です。石がゴロゴロ(ゴツゴツ?)している様子が描かれています。


『鎌倉名勝図』和賀江島
 絵の上が北で、左下の岬が「和賀江島」

 いずれも江戸時代の絵ですが、岬のように描かれており、復元想像図のような整然と組み上げられた石垣には見えません。すでにこの頃には現在のような玉石岬に近い状態になっていたのではないでしょうか。さらに、築港当時の鎌倉時代においても、石材が玉石であること、工事期間が1ヶ月足らずと短いこと、また、現在もこの形状で十分船舶の停泊が可能で、港湾として機能していることから、おそらく(私自身の推測ですが)、江戸時代の復元想像図のような整然と組み上げられた石垣状の桟橋ではなく、築港当初においても現在の形状に近い状態だったのではないかと想像しています。


 以前は、玉石の隙間から、このような青磁片が拾えたとのことです。(今でも、真剣に探せば、見つけられるかも……)
 当時、宋との交易により青磁の壺、皿などが和賀江島に陸揚げされたようです。となれば直径30㎝程もある玉石むき出しの桟橋では足場が悪く、荷の運搬も困難だったでしょう。玉石の上に木道か、木製の桟橋のようなものを築けば、港湾としての機能も向上しますので、そういった可能性もあるのではないかと思っています。(まったくの私見)

■小説『春を忘るな』での源実朝の渡宋計画との関連

 前述の通り、勧進聖人往阿弥陀仏が「舟船着岸の煩い無からんが為、和賀江嶋を築くべき」と北条泰時に進言したということは、それまでの鎌倉の海岸は大型船(唐船)の着岸が困難で、この13年前に源実朝と陳和卿が唐船を建造したものの、遠浅で進水できなかったことを裏付けることになります。その一方、小説『春を忘るな』のラストで実朝が密かに唐船で宋に向けて出立する(コチラ)のは難しいのではないか、という疑念につながってしまいます。しかし、これについては次回の「『春を忘るな』の周辺(8)」で詳しく述べたいと思います。

■今回の撮影メイキング


 和賀江島を海岸(横方向)から見ていると、全体の広がりが把握しずらく、ただの砂洲のようにしか見えません。何とか上空から全体を見てみたいと、かねがね思っていたこともあり、ドローンによる空撮を試みることにしました。器材さえあれば何とかなると高を括っていたのですが……。
 ところが、意外に面倒なことがわかりました。(;^_^A


国土交通省東京航空局より「無人航空機の飛行に係る許可・承認書」を取得


「海岸一時使用届」を国土交通省の神奈川県藤沢土木事務所に申請

 まず、国土交通省へ以上のような手続き(詳細はよくわかりません)を行わなければならないようです。が、そんなことをやってる暇もノウハウもありません。(いや、暇はけっこうあるのですが……(;^_^A)
「株式会社うみどり」というところで、以上のような事務手続きからドローンによる空撮をやっているということを知り、丸投げで発注することにしました。


こんなのも必要……。


「株式会社うみどり」の社長兼社員。じつは私の息子なんですが……。


私も「撮影補助員」という立場で腕章を付けさせられました。


いざ……。


ドローン(うみどり1号機)離陸!


さあ、和賀江島へ向かえ!


和賀江島を低空で撮影中。(高空は写真に納まりません)


任務終了。帰還!


着陸は惑星探査機「はやぶさ」が小惑星に着陸するがごとく……。が、ここは地球なので、風に煽られて揺さぶられる。着陸地点を慎重に見定め……。


無事着陸!

■ドローン帰還の様子を動画でご紹介

おわり

■実朝の唐船は旅立つことができたのか? ―『春を忘るな』の周辺(8)― はコチラ

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