「実朝の唐船は旅立つことができた」を科学的に検証
今回のテーマは「実朝の唐船は旅立つことができたのか?」です。
源実朝は宋に渡るために、宋人、陳和卿に唐船の建造を命じ、渡宋を計画しましたが、船おろし(進水)に失敗したとされています(『吾妻鏡』の記述はコチラ)。しかし、小説『春を忘るな』では、その後に起きた実朝暗殺事件の日(右大臣拝賀式の日)の夜、密かに唐船で宋に旅立ったのです。
前回の「『春を忘るな』の周辺(7)」で、勧進聖人往阿弥陀仏が北条泰時に「舟船着岸の煩い無からんが為、和賀江嶋を築くべき」と進言したことをご紹介しましたが、これは鎌倉の海岸が遠浅で、それまでは大型船(唐船)が着岸できなかったことを意味します。実朝の唐船が船おろし(進水)に失敗したことを裏付けることになるのはよしとして、はたして「暗殺事件の起きた夜、密かに出航」出来たのだろうか? という疑問がわくことでしょう。今回の記事で、それを検証したいと思います。(小説の中でも、ある程度は触れてはいますが……)
■鎌倉の海は「遠浅」とは言うけれど……
鎌倉の海岸は材木座も由比ヶ浜も七里ヶ浜も砂浜で、一見遠浅に見えますが、波打ち際から十数メートルから数十メートル出たところで、急に深くなっているのです。サーフィンをしていても漁船がすぐ近くまで来ることもあります。
大型クルーザーが海水浴場に接近して問題になったことも……。
和賀江島の海岸寄りに停泊する漁船。最も水深の浅くなる大潮の干潮時でも漁船が係留できる。
海には潮汐(チョウセキ)(潮の干満)があります。鎌倉では大きいときで1.5m程の潮位差が生じます。ですので実朝が「船おろしに失敗した時」、そして「密かに出航した時」の潮の状態がどうだったのかが問題になります。「今となっては、そんなことわかるわけないでしょ」とお思いですか? いえいえ、そうでもないんです。では、少々おつきあい願えないでしょうか?(次項の「潮汐のメカニズム」は、ご存知の方には釈迦に説法。自然科学がお好きでない方には面白くないかもしれません。そんな方々は、次項をパスしていただいてもかまいません)
■潮汐のメカニズム
①潮汐(潮の干満)がどうして起きるのか?
これは太陽と月の引力によるものですが、まず月の引力だけを見てみましょう。
このように、月に面した側は、月の引力で海水が引っ張られ、反対側は、月と地球の共通の重心の周りを地球が回転(公転)することで生じる遠心力で引っ張られます(ここ、解りにくいかもしれませんが、柔らかい軟式テニスボールに紐(引力)を付けて回転させればボール(地球表面の海水)が紡錘形に歪むのをイメージしてください)
②なぜ大潮になったり小潮になったりするのか?
これは太陽と月の位置が地球に影響して起きます。
満月と新月の時は、太陽と月の両方の引力が合算されて大きな引力と遠心力が働き、水深の深い浅いが顕著になって「大潮」になります。
半月の時は、太陽と月の引力が分散されて干満が小さくなる「小潮」となります。
③季節により夜潮と昼潮がある。
左の潮汐グラフは1月24日(冬至から1ヶ月後)ですが、夜の干満が大きく、昼の干満が小さくなっています。これを「夜潮」と言います。 右の潮汐グラフは5月23日(夏至の1ヶ月前)ですが、昼の干満が大きく、夜の干満が小さくなっています。これを「昼潮」と言います。
なぜ、こういうことになるのかを説明するのは少々難しいです。夏(夏至)と冬(冬至)で、太陽に対する地軸の傾きが逆になることで昼の干満と夜の干満に違いが出るから、という説明で今回はお許しください。(夜潮と昼潮のメカニズム説明や絵がネット上で見つからなかったので、私の手書き絵でご勘弁願います)
■実朝と陳和卿が船おろし(進水)に失敗した日の潮位はどうだったか?
最近は、ネット上に年月日(新暦)を入力すると、その日の潮汐データを計算してくれるソフト(注)があります。また、旧暦(太陰暦)の年月日を新暦(太陽暦)に変換するソフトもあります。
注:潮汐は海底の地形にも影響を受け、鎌倉時代と現在では海底地形も異なる可能性があり、精度については多少の誤差もあり得ます。
そこで、まず実朝と陳和卿が船おろし(進水)に失敗した日(健保五年四月十七日)を新暦に変換すると、1217年5月23日(ユリウス暦)となります。これを潮汐計算ソフトに入力して得たデータで下グラフを作成しました。
健保五年四月十七日の潮汐(鎌倉、江ノ島付近)
これを見ると、完全な「昼潮」で昼の12時が大潮の干潮です。『吾妻鏡』の船おろし(進水)に失敗した日(健保五年四月十七日)の記述よると「彼の船を由比浦に浮かべん」としたのは「午の刻より申の斜め」とのこと、つまり午前11時から午後4時頃まで作業したようで、これはちょうど潮が引いている状態だったことになります。私は、おそらく北条義時の企みで、人夫たちに本気で船を曳かせなかったと睨んでいますが、海岸の状態も船おろしには最悪の状態だったということが、この潮汐グラフから読み取れます。
■実朝暗殺事件の起きた日の潮位はどうだったか? 風は?
実朝暗殺事件の起きた日(右大臣拝賀式の日)は旧暦の健保七年一月二十七日で、新暦では1219年2月13日(ユリウス暦)です。この日の潮汐グラフは以下の通り。
健保七年一月二十七日の潮汐(鎌倉、江ノ島付近)
完全な「夜潮」で夜中の24時が干潮。明け方が満潮です。潮位も、明け方には船おろしの時より水面が1.5mほど上がっています。小説『春を忘るな』では実朝暗殺事件の起きた夜の明け方に実朝の唐船は密かに出航しました。つまり新月(正確には新月の三日前)の暗い夜に紛れて出港準備。満潮となる明け方に出航したのです。しかも、その時間帯ならば、まだ朝凪になる前で、陸風(下図)が最も強く吹く(陸の気温は最も低くなる)時間帯。満潮の潮が引きに転じると同時に、陸風(つまり追い風)を孕んだ帆で一気に出航が可能だったのです。
陸風(オフショア)のメカニズム
海風(オンショア)のメカニズム
こういった潮汐や風の吹くメカニズムを、古くから船乗りや漁師は、経験的、体感的に知っていました。現代でもサーファーという民族がそれに近いでしょう。波乗り族は、潮、波、風といった自然に身を任せ、生活のスタイルやリズムも、それによって決まるという習慣、文化を持った「民族」です。その民族の端くれであったがゆえに、私は『春を忘るな』のラストを、何者かに突き動かされて書いたのだと感じています。
■検証の結果
さて、今回のテーマ「実朝の唐船は旅立つことができたのか?」ですが、以上の検証結果から、答えは「十分に可能だった」と言えます。
源実朝は、夜明けとともに、憧れの宋へ旅立って行ったと私は確信しています。(『春を忘るな』のその場面はコチラ(第19話の後半))
「え? 源実朝は右大臣拝賀式の日に公暁に殺されたんじゃないの?」と仰る方はぜひ『春を忘るな』を読んでみてください。