1.鎌倉のこと

『吾妻鏡』に描かれた三代の源氏将軍


 この記事は、源実朝の謎シリーズの第3弾「源実朝の謎(3) 真相の解明は……」(2020年12月10日掲載)の簡略特別版です。

『吾妻鏡』の源氏の描き方

■頼朝、頼家、実朝はどのように描かれているか

 『吾妻鏡』は、鎌倉幕府の公式記録の体裁をとっており、鎌倉時代を探るためには、これに「かなり」頼らざるを得ません。年号、日付順に記述され、一見、まるで幕府の役人が当日の出来事を書き綴った幕府政務日誌のように見えますが、注意しなければならないのは、編纂されたのは鎌倉時代末期(1300年頃)という説が有力です。これは源氏三代の将軍が終わり、北条氏が実権を掌握した後のことです。つまり、内容としては源頼朝が鎌倉へ入った治承4年(1180年)から始まっていますが、書いている人は後世の北条氏政権の役人と推定されます。

 源頼朝については、鎌倉に武家政権を樹立した立役者として一応はリスペクトしてはいますが、たとえば、政子が万寿(後の頼家)を妊娠中に、伊豆の流人時代から付き合っていた亀の前という女性を逗子の小坪に呼び寄せ、密会を続けていたところ、政子がこれを知って激怒し、亀の前が間借りしていた屋敷を破壊した(原文はコチラ)とか、頼朝が大倉御所に仕える女房と「御密通」して子供が生まれたが、政子がこれを知ると「はなはだ不快」であるとして、出産の儀式はすべて取り止めになった(原文はコチラ)など、「文春砲」よろしく女性関係に問題が多かったように書いています。

注:あくまで「吾妻鏡」視点でのイメージです(当記事著者の感想ではありません)

 そして、不可解なことに頼朝の死没した時点での記録がないのです。死没した時ではなく、13年後の建暦二年(1212年)二月二十八日の条で「建久九年(1198年)に、頼朝が橋のそばで落馬し、幾日も経たずして亡くなったが、その橋を再建すべきか、やめるべきか……」と、実朝と家臣たちが議論している中で、13年前の過去に起きたこととして唐突にさらっと触れているだけなのです。(原文はコチラ) 鎌倉幕府の創設者たる初代将軍の死亡について死因、経緯をほとんど書いてない(「落馬」とは記されているが、それが直接原因なのか不明確)、というのは不思議(怪しい)としか言いようがありません。

 そして、第二代将軍の頼家については、たとえば家来の愛していた(囲っていた?)女性を奪い取った、とか、蹴鞠に夢中で政務を疎かにしていた。


 また、将軍の仕事の一つに、御家人同士の土地・財産のもめ事を仲裁・調停する事がありますが、その能力がまったく無かった等々、かなり酷い書き方です。(今風にいえば、サッカーと格闘技の好きなやんちゃな青年が、親の七光りで社長になったものの、お仕事はあまり熱心でなく能力もなかった、といった論調)
 そして頼家は将軍としての能力がなかったので、みんなで相談して合議制(鎌倉殿の13人)を始めたのだ、と言いたげです。挙句の果てに、頼家は病気のためとして伊豆の修善寺に幽閉された後、死んだのですが、ただ「飛脚から頼家死去の報があった」とだけ短く記しているだけです(原文はコチラ)。しかし『愚管抄』によれば、北条氏の放った刺客に殺害されたことが詳細に書かれています(原文はコチラ)。これによりますと、頼家は、入浴中に刺客に襲われながらも激しく抵抗(病み上がりなのに?)したため、刺客は、頼家の首を縛って、フグリ(男の急所。明確には原文を参照願います)を掴んで取り押さえ、刺し殺したとのことです。頼家が、かなり屈強な人で格闘にも長けていた(武将としては優れていた?)ことが想像されます。


 頼家の室(正室か側室かは不明)は比企能員の娘(若狭の局)で、比企能員といえば、頼朝の乳母であった比企の尼の甥(養子)です。じつは頼朝は比企の尼を、かなり慕っていたところがあったようで(少々マザコン?)、比企氏一族を重用し、能員の娘と頼家を結婚させました。そのため、頼家も比企邸に住むなど、比企一族寄りだったようです。北条氏としては、せっかく政子が頼朝の正室となり、外戚として権力をふるえるはずだったのに、比企氏の存在が邪魔になった、ということは容易に想像できます。その結果が「比企の乱」となったわけです。


「比企の乱」とは言ってますが、吾妻鏡によれば(あくまで吾妻鑑の記載)、比企能員と頼家が北条氏を討つ相談をしているところを、政子が障子の影で立ち聞きし、能員を成敗するよう父、時政に訴えると、時政は自邸に比企能員を呼び寄せ、殺してしまった、というものです。(少々乱暴な言い方をすれば、言いがかりをつけて邪魔者を消した、ということで「北条の乱」と言ったほうが解りやすいのですが……) そして、その延長上に頼家の伊豆幽閉と暗殺があったのです。

 ここまで少々長くなって、みなさんに飽きられてしまいそうなので、手短に『吾妻鏡』全体に流れる視点、世界観を、ざざっと言えば、頼朝は関東に武士政権を樹立した大立役者ではあるが、少々女性関係がだらしなく指導者としてはいかがなものか。その子(二代目の若旦那)頼家は、今風にいえばサッカーと格闘技の好きなやんちゃ坊主で勉強やお仕事はあまり熱心じゃなかった。その弟の実朝は兄の頼家とは正反対の性格で、おとなしく、武芸より和歌を愛でる青白い文学青年。京の公家たちと仲良くしたがる、武士の棟梁としては、いささか頼りない人間。だから(清和源氏というブランド氏族ではあるが、リーダーとしては「しょうもない」源氏を排除して)北条氏が執権としてしっかり幕府を支えていかなければならないのじゃ! ということなのです。

■『吾妻鑑』をそのまま信じることはできない

 正直に申し上げて、私は、これら『吾妻鑑』に記されたことをそのまま事実として受け止めることはできません。とはいえ『吾妻鏡』がなければ、いつごろ、どんな出来事(イベント)があったか、は闇の中。ですので『吾妻鏡』に描かれた絵から「北条視点(脚色)」という表面の絵の具を剥がし、事実の描かれている原画をあぶり出す作業をしなければ真相は見えて来ません。そのためには、文献に記された事実の点だけを拾い、点と点を繋ぐ線は、この人物なら、この場面では、このように感じ、考え、行動したはずだ、という推理で描くやり方、つまり小説を書く中で、この実朝暗殺事件の真相を解明していきたいと私は思っています。

■実朝暗殺事件の真相を小説という手段で追う!

 私は、この事件について、次のような疑問を感じています。これらを解き明かすために、歴史上実在した登場人物の立ち場、人間関係、心情に寄り添って小説を書いてみようと思います。

・源実朝は本当に青白い文学青年だったのか?

 現代の多くの文化人、文学者が実朝を優れた歌人として評価しています。私も、そう思いますが、『吾妻鑑』の作った(脚色した)実朝像が相まって、ひ弱な(ナイーブな?)青年だったというイメージが出来上がってしまっているように思えます。(頼家の「やんちゃ」、「無能力」という『吾妻鑑』の描きようにも同様の疑問を持っています)

・実朝は殺された後、なぜ首が消えたのか?

 しかも「持ち去られて、そのまま」を記録、公言しているのはなぜ? ふつうは隠すでしょ? 隠しても隠しきれずに漏れ出てしまう性格の情報ではないでしょうか?(頼朝の死も頼家の死も、さらっと触れているだけの『吾妻鑑』が実朝暗殺事件は、実況をドラマチックに報じ、政権として恥ずかしい「大将の首取られちゃった」まで公式記録に残している)
 どう考えてもおかしい。これは何かあるに決まってます。

・実行犯は公暁だったとしても、北条義時が黒幕だったのか?

 だとしたら、たった一人残された姉の子(自身の甥)を殺したというのでしょうか?

・出でていなば主なき宿となりぬとも軒端の梅よ春を忘るな

 これは実朝の辞世の句と云われていますが、本当にそうなのでしょうか?
 「春を忘るな」というフレーズには、死を予感した人間にはない、希望にも似た前向きな気持ちを感じるのは私だけでしょうか?

■春を忘るな

 実朝暗殺の真相を追う小説の題名をこれに決めます。
 次回より、毎週金曜日連載で当ブログに公開します。(2022年現在、完結し全編を公開中)
 2022年NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」が始まる前に、実朝暗殺の真相を明らかにします! 乞うご期待!

2020年12月18日 連載開始 本編(まえがき)はコチラ

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