1.鎌倉のこと

ラフカディオ・ハーンの見た鎌倉(2)― 円覚寺 ―

この記事は、ラフカディオ・ハーンの見た鎌倉(1)からの続きです。

注)記事中の英語原文(青字)は、ハーンの生の言葉を味わっていただくために掲載しますが、読み飛ばしていただいても記事の意図はお伝えできるよう日本語訳(青字)を入れました。
なお、英語原文は、『Glimpses of Unfamiliar Japan』(プロジェクト・グーテンベルク)より引用しました。

旅の始まり

ラフカディオ・ハーンの『Glimpses of Unfamiliar Japan(知られぬ日本の面影)』のChapter Four A Pilgrimage to Enoshima Sec. 1 KAMAKURA.(第4章 江ノ島巡礼の旅 第一節 鎌倉)は、次のように始まります。

Akira has hired two jinricksha for our pilgrimage; a speckless azure sky arches the world; and the land lies glorified in a joy of sunshine. …….

アキラは、私たちの巡礼の旅のために2台の人力車を雇った。で始まり、田園風景の描写が延々と続きます。
※アキラについては前回(1)をご覧ください。

出発地点は記されていませんが、横浜から鎌倉へ行って江の島を周る旅が、1日の行程となっていること。出発するとすぐに田園風景の中を人力車が走っていること。その風景が、どうも、かつての大船~鎌倉間の田園地帯を匂わせること。そして北鎌倉駅がまだなかったことを考慮すると、人力車での出発地点が横浜とは考えにくく、すでに国府津駅まで開通していた東海道線で大船駅まで行き、そこから人力車で出発したものと私は考えます。

最初に訪れた円覚寺


ラフカディオ・ハーンの鎌倉・江の島めぐりの推定ルート


円覚寺境内図
円覚寺ホームページの略地図を使わせていただき、ハーンの拝観順に付番しました。
注)ハーンが訪れた時は、まだ北鎌倉駅はありません。

①総門(~山門)

The first great temple—En-gaku-ji—invites us to cross the canal by a little bridge facing its outward gate—a roofed gate with fine Chinese lines, but without carving. Passing it, we ascend a long, imposing succession of broad steps, leading up through a magnificent grove to a terrace, where we reach the second gate.

最初に訪れた大きな寺院、円覚寺は、その外門(総門?)に通じる小さな橋で運河(堀川?)を渡るよう私たちをいざなう。この門には、繊細で中国的な線が描かれているものの、彫刻のない屋根を頂いている。それを通り抜けると、長く堂々とした幅の広い階段が続き、壮大な木立に囲まれた道を通ってゆく。やがて平らな場所まで上がると、第 2 の門(山門?)に到着する。
と述べています。


運河(堀川)は見当たりませんが、総門の手前にある白鷺池と橋がかつての名残りでしょうか?



橋を渡った先に階段があり、総門が見えてくる。


総門
「瑞鹿山(ずいろくさん)」は円覚寺の山号。ちなみに「円覚寺」の由来は、建立の際、大乗経典の円覚経(えんがくきょう)が出土したことからと云われています。


たしかに、彫刻は見当たらず、簡素な造りです。
ハーンは、あえて「彫刻のない」と書いていますが、横浜で見た寺院建築には竜や獅子などの彫刻が施されたものが多かったことから、その違いを感じたのでしょう。臨済宗(禅宗)である円覚寺の特徴を敏感に捉えたものと思います。


総門を抜けると、「長く堂々とした幅の広い階段が続き、壮大な木立に囲まれた道を通ってゆく。やがて平らな場所まで上がると、第 2 の門(山門?)に到着する」の辺りです。

②山門

This gate is a surprise; a stupendous structure of two stories—with huge sweeping curves of roof and enormous gables—antique, Chinese, magnificent. It is more than four hundred years old, but seems scarcely affected by the wearing of the centuries.

この門(前述の第2の門=山門?)には、まったく驚かされる。巨大な切妻の屋根を頂いた二階建ての荘厳な建造物は、古めかしく中国的で壮大だ。400年以上も経っているのに、何世紀もの時を超えてきたものとは、とても見えない。
と述べています。
そして、
You look everywhere for the heads of lions, elephants, dragons, and see only the four-angled ends of beams, and feel rather astonished than disappointed. The majesty of the edifice could not have been strengthened by any such carving.

獅子頭や象、竜(の彫刻)を探しても、梁の四角い切り口が見えるだけなのに、失望するよりむしろ驚かされる。この建物の威厳には、そのような彫刻など必要としないのだ。

と続けています。禅宗様式を知ってか知らずか、ハーンが禅宗(臨済宗)の寺の特徴に注目し、シンプルな美しさや威厳に感動しているのがわかります。


山門
ハーンの言う「第二の門」です。


この門には、まったく驚かされる。巨大な切妻の屋根を頂いた二階建ての荘厳な建造物は、古めかしく中国的で壮大だ。400年以上も経っているのに、何世紀もの時を超えてきたものとは、とても見えない」というハーンの気持ちは、見れば実感できます。
(ただし、天明五年(1785年)に再建された門なので、ハーンの訪れた時はまだ百年ほどの歴史です。(円覚寺ホームページより))


ハーンが言うので、下から見上げて見ると……。
獅子頭や象、竜(の彫刻)を探しても、梁の四角い切り口が見えるだけなのに、失望するよりむしろ驚かされる。この建物の威厳には、そのような彫刻など必要としないのだ
今まで、何とな~く見て回っていたお寺巡りも、見方が変わってきますね。

③「漱石」と書かれた謎の手水鉢

ハーンは、これについては何も記していませんが、私の脱線におつきあいください。
夏目漱石の小説『門』は、漱石が実際に円覚寺の塔頭を訪れて座禅を体験したときのことがモチーフになっていますよね。夏目漱石という筆名の由来は、「漱石枕流(そうせきちんりゅう)」という中国の故事から名付けたと一般に言われています。しかし、この円覚寺境内に「漱石」と書かれた手水鉢があるのは、なにやら面白いですね。手水鉢の裏側には「天保六」と彫られていると見る人もいます。

 ※漱石枕流:屁理屈を言って言い逃れをすること、負け惜しみが強いことのたとえ。漱石は自虐的に(へそ曲がりの性分?)これを筆名としたようです。(詳しくはコチラ



山門を過ぎて、仏殿の手前、右側にある手水鉢
見えにくいですが、大きな字で右から左へ「漱石」と彫られています。



右上に「天保六」と彫られている? どうでしょう?

本当に天保六年の奉納だとしたら、ハーンが訪れたときには、すでに在ったし、夏目漱石が座禅体験に訪れた時にも在ったことになります。そうなると、夏目金之助(漱石の本名)が、禅の公案に悩みながら、この手水鉢を目にして、はっと何かを悟り、自身の筆名を「漱石」と決めた、かもしれませんよね。「いやまてよ、夏目漱石が円覚寺に体験座禅したとき、すでに夏目漱石という筆名は、すでに決まっていたとしたら、その説は成り立たんな」(とぶつぶつ言いながら、カチャカチャっと検索してみますと……)漱石(いや、夏目金之介)が、初めて「漱石」を、筆名に使ったのは、(Wikipediaによりますと)1889年(明治22年)5月、 正岡子規の『七草集』の批評を書いたとき、となっていました。(アチャー!(≧▽≦;))漱石が円覚寺に座禅体験に訪れたのは、1894年(明治27年)ですから、「漱石」という筆名は、すでに決まっていたことになりますね。ということで、私の邪推は当たりませんでした
 それはともかく、夏目漱石といえば、ラフカディオ・ハーンが、後に東大の英文学講師となり、その後任が夏目漱石でした。それを、円覚寺を訪れたときのハーンが知る由もありませんが、何か因縁を感じてしまうのは私だけでしょうか?

④仏殿

After the gate another long series of wide steps, and more trees, millennial, thick-shadowing, and then the terrace of the temple itself, with two beautiful stone lanterns (toro) at its entrance. The architecture of the temple resembles that of the gate, although on a lesser scale. Over the doors is a tablet with Chinese characters, signifying, ‘Great, Pure, Clear, Shining Treasure.’ But a heavy framework of wooden bars closes the sanctuary, and there is no one to let us in.

門(山門)を過ぎると、長い幅の広い階段が続き、千年の時を感じさせる濃い影の木々が生い茂り、その先に寺から張り出した台(浜縁?)があり、入り口には美しい石灯籠が 2 つ立っている。建築様式は門(山門?)に似ているが規模は小さい。扉の上には「偉大で、純粋で、清らかな、光り輝く宝物」を意味する漢字(大光明宝殿)の扁額が掲げられている。しかし、重い木の格子柵が聖域(堂)を閉ざしていて、誰も中に入れないようになっている。


仏殿
ハーンが見た仏殿は1923年(大正12年)の関東大震災で倒潰してしまいました。現在の仏殿は1964年(昭和39年)に再建されたものです。


ハーンは「重い木の格子柵が聖域(堂)を閉ざしていて、誰も中に入れないようになっている」と記していますが、現在の仏殿は「土足厳禁」ではありますが、誰でも入れます。
おそらく(私見ですが)、ハーンが来日した時期は、明治政府の神仏分離令による廃仏毀釈が収束した後ながら、寺院としては仏像を守るための処置だったのではないでしょうか?


仏殿に安置された、本尊の宝冠釈迦如来像
円覚寺は幾度も火災に遭っています。永禄六年(1563年)の罹災後の記録に「御面相はとり出す」という記録があり、その後の調査で頭部には創建時のものと思われる部材が残っていることが明らかになった、とのことです。(以上、円覚寺ホームページより)
ハーンが、「重い木の格子柵」から、必死に堂内を覗いて見たとき、宝冠釈迦如来様は、暗闇からギロリと彼を見返したのではないか、と私は思います。私も睨みつけられましたので……。


石灯籠
鎌倉の寺院の建物は、戦乱や大火で焼失し、創建当時(鎌倉時代)のものは、ほとんどないのですが、ハーンが見た「入り口には美しい石灯籠が 2 つ立っている」は、修復跡はあるものの、創建当時の姿を残しているのではないかと云われています。(石は燃えませんし、震災で崩れても、組み直すことができますからね)

⑤舎利殿

The little temple beyond contains no celebrated image, but a shari only, or relic of Buddha, brought from India. And I cannot see it, having no time to wait until the absent keeper of the shari can be found.

その先の小さな寺院(舎利殿?)には、これといってめぼしい仏像などはなく、インドからもたらされた釈迦の遺物、すなわち舎利(仏の骨や歯)だけが安置されている。舎利の番人は不在中で、番人を見つけるまで待つ時間がなかったので、それを見ることができなかった。


舎利殿(特別公開日以外は拝観できないので写真は円覚寺ホームページより)
もともとハーンは、横浜の寺では、あまり仏像を見ることが出来なかったので、鎌倉には仏像を見たいと思ってやってきた、という経緯があります。それで、「めぼしい仏像がなかった」と言ってるのでしょう。それにしても、ほとんどの鎌倉の建造物が近世の再建である中で、日本最古の唐様(禅宗様)建築物で、現在は国宝になっている貴重な舎利殿を見ることなく、あっさりと去ってしまったのは、やはり、駆け足の旅だったからでしょうか?

⑥釣鐘(洪鐘)


‘Now we shall go to look at the big bell,’ says Akira.

We turn to the left as we descend along a path cut between hills faced for the height of seven or eight feet with protection-walls made green by moss; and reach a flight of extraordinarily dilapidated steps, with grass springing between their every joint and break—steps so worn down and displaced by countless feet that they have become ruins, painful and even dangerous to mount. We reach the summit, however, without mishap, and find ourselves before a little temple, on the steps of which an old priest awaits us, with smiling bow of welcome. We return his salutation; but ere entering the temple turn to look at the tsurigane on the right—the famous bell.

Under a lofty open shed, with a tilted Chinese roof, the great bell is hung. I should judge it to be fully nine feet high, and about five feet in diameter, with lips about eight inches thick. The shape of it is not like that of our bells, which broaden toward the lips; this has the same diameter through all its height, and it is covered with Buddhist texts cut into the smooth metal of it. It is rung by means of a heavy swinging beam, suspended from the roof by chains, and moved like a battering-ram. There are loops of palm-fibre rope attached to this beam to pull it by; and when you pull hard enough, so as to give it a good swing, it strikes a moulding like a lotus-flower on the side of the bell. This it must have done many hundred times; for the square, flat end of it, though showing the grain of a very dense wood, has been battered into a convex disk with ragged protruding edges, like the surface of a long-used printer’s mallet.

A priest makes a sign to me to ring the bell. I first touch the great lips with my hand very lightly; and a musical murmur comes from them. Then I set the beam swinging strongly; and a sound deep as thunder, rich as the bass of a mighty organ—a sound enormous, extraordinary, yet beautiful—rolls over the hills and away. Then swiftly follows another and lesser and sweeter billowing of tone; then another; then an eddying of waves of echoes. Only once was it struck, the astounding bell; yet it continues to sob and moan for at least ten minutes!

And the age of this bell is six hundred and fifty years.

In the little temple near by, the priest shows us a series of curious paintings, representing the six hundredth anniversary of the casting of the bell. (For this is a sacred bell, and the spirit of a god is believed to dwell within it.) Otherwise the temple has little of interest. There are some kakemono representing Iyeyasu and his retainers; and on either side of the door, separating the inner from the outward sanctuary, there are life-size images of Japanese warriors in antique costume. On the altars of the inner shrine are small images, grouped upon a miniature landscape-work of painted wood—the Jiugo-Doji, or Fifteen Youths—the Sons of the Goddess Benten. There are gohei before the shrine, and a mirror upon it; emblems of Shinto. The sanctuary has changed hands in the great transfer of Buddhist temples to the State religion.

In nearly every celebrated temple little Japanese prints are sold, containing the history of the shrine, and its miraculous legends. I find several such things on sale at the door of the temple, and in one of them, ornamented with a curious engraving of the bell, I discover, with Akira’s aid, the following traditions:

少々長いので、少し端折って要約します。

「さあ、大きな釣鐘(洪鐘)を見に行きましょう」とアキラが言った。

(境内の東の方へ)苔むした小道を下っていくと、(石段の)継ぎ目から草が生え、すり減って崩れかけた危なっかしい老朽化した石段にたどり着く。そこを上がって、なんとか無事に頂上に到着すると、小さな堂の前に出た。石段の上では、年老いた僧が微笑みながら私たちを待っていてくれた。そこには、中国風の小屋の屋根下に、大きな鐘が吊るされていた。高さは9フィート(約2.7m)、直径は約5フィート(約1.5m)、縁の厚さは約8インチ(20㎝)もある。この鐘の形は、我々西洋の鐘のように裾が広がったものではなく、縦方向に同じ直径で、文字が刻まれている。

 迎えてくれた老僧が、鐘を鳴らしてみなさい、という表情をしたので、私は吊るされた揺り梁(撞木?)を揺すって突いてみた。すると雷のように深く、巨大なオルガンの低音のように豊で、なおかつ美しい音が、丘の上から転がり落ちてゆく。たった一度しか突いていないのに10分間は鳴り響き続けた。

この鐘の年齢は650年である。

この鐘突き堂のそばに小さな堂があって、老僧がこの鐘の鋳造から600年を表した一連の不思議な絵を見せてくれた。(これは神聖な鐘で、神の魂が宿っていると信じられているというもの)。それ以外には、この堂にはほとんど興味深いものはない。堂の前には御幣と神道の象徴である鏡が置かれている。この神域は、仏教寺院から国教(神道)に移管される中で、大きく様変わりした。
 ※弁天堂に掲げられている板絵「円覚寺弁天堂洪鐘祭行列図」のことと思われます。
  コチラのサイトの「弁天堂」に板絵の写真が掲載されています。

ほとんどすべての有名な寺院で、その寺の歴史や伝説を記した小さな冊子が売られている。そのうちのひとつに書かれた伝承※を、私はアキラに翻訳してもらった。

※大鐘の伝承はコチラ

この釣鐘(洪鐘)の記述で、私が気になったところが二つあります(赤字の部分)。

And the age of this bell is six hundred and fifty years.

この鐘の年齢は650年である

についてですが、洪鐘は、正安三年(1301年)に第9代執権北条貞時の発願によって鋳造されたもので、鐘には「円覚寺鐘、正安三年八月、大檀那平貞時、住持宋西潤子曇、大工大和権守物部国光在銘」と刻印されています。ハーンの訪問は1890年ですので、単純計算すると589年経過のはず。650年とは、どこから出てきた数字なのでしょうか?


国宝のため厳重に保護されていて、近寄って刻印を確認することはできませんでしたが、説明版には、正安3年に鋳造された、となっています。また、

In the little temple near by, the priest shows us a series of curious paintings, representing the six hundredth anniversary of the casting of the bell

この鐘突き堂のそばに小さな堂があって、老僧がこの鐘の鋳造から600年を表した一連の不思議な絵(弁天堂に掲げられている板絵?)を見せてくれた。

とも記しており、「板絵」は古い物でしょうから、ハーン訪問時から遡れば600年以上だと言っていることになり、鐘の刻印と辻褄が合いません。「まあ、細かいこと言うな」と言われれば、それまでですが……。

There are gohei before the shrine, and a mirror upon it; emblems of Shinto. The sanctuary has changed hands in the great transfer of Buddhist temples to the State religion.

 堂の前には御幣と神道の象徴である鏡が置かれている。この神域は、仏教寺院から国教(神道)に移管される中で、大きく様変わりした

この記述は、明治政府の神仏分離令によって置かれた当時の状況を指していると思われます。上記の太字(紫色)部分の意味が微妙で、うまく訳せていないかもしれませんが、ハーンの日本の旅が、神仏分離令と、それによって起きた廃仏毀釈の傷跡が残っていた時期であったことは、何かしら重要な意味を示唆していると思います。これについては、現在執筆中の小説『ラフカディオの旅』の中で考察したいと思っています。

洪鐘への上り口には鳥居が……。
神仏習合の時代には問題なかったものが、神仏分離令により、この洪鐘周辺はどのように扱われたのでしょうか。

その他の場所

‘Oh! there is something still to see,’ my guide exclaims as we reach the great Chinese gate again; and he leads the way across the grounds by another path to a little hill, previously hidden from view by trees. The face of the hill, a mass of soft stone perhaps one hundred feet high, is hollowed out into chambers, full of images. These look like burial-caves;……(中略)’Adoration to the great merciful Kwan-ze-on, who looketh down above the sound of prayer.’

「おお!まだ見るべきものがありました」とガイド(アキラ)は再び中国風の偉大な門に到着すると叫んだ。そして彼は別の小道を通って敷地を横切り、それまでは木々に隠れて見えなかった小さな丘へと向かった。おそらく高さ100フィートの柔らかい石の塊である丘の表面に空洞がくり抜かれていて、仏像(?)がたくさんある。これらは埋葬用の洞窟のように見える……。(中略)偉大なる慈悲深き観世音への賛美、祈りの音の上に見下ろしておられる……。

ハーンは、このように、「仏像(観音像?)がたくさん安置されている洞窟(横穴群?)」のようなところがあるように記しているのですが、私には、その場所を確認できませんでした。全くの推測ですが、現在は埋もれてしまった(あるいは、公開されていない塔頭等、私有地のため立ち入れない場所にある)「やぐら群」かもしれません。これについては、今後の課題です。

龍隠庵の裏手には「やぐら」があって、ハーンが見たのも、このような「やぐら」だった可能性はあります。


中には仏像らしきものが安置されています。

ハーンは記していませんが円覚寺には、まだまだたくさんの名所(含、迷所)があります。

今回の取材で私が撮った、それらの一部についてはコチラでご覧いただけます。


さて、次回(3)は建長寺です。

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