この記事は、ラフカディオ・ハーンの見た鎌倉(4)からの続きです。
書かれなかった八幡宮
ラフカディオ・ハーンの鎌倉・江の島めぐりの推定ルート
1.ラフカディオ・ハーンは鶴岡八幡宮に行かなかったのか?
明治時代の鶴岡八幡宮(絵はがき)
まだ大銀杏が立っています。
これまで、このシリーズの基本資料としてきた『Glimpses of Unfamiliar Japan(知られぬ日本の面影)』に、鶴岡八幡宮のことは、いっさい書かれていません。Sec. 9で円応寺を訪れたことを記したあと、Sec. 10では高徳院の大仏を訪れた記事に飛んでいるのです。上図の推定ルートをご覧いただければお分かりのとおり、ハーンは鶴岡八幡宮のすぐ側を通ったはずです。その鶴岡八幡宮は鎌倉観光の看板です。これは江戸時代から現在に至るまで不動の観光名所です。ましてハーンは将軍、源頼朝が鎌倉を造ったということはよく知っています。(第4章のSec. 1で大船から人力車で出発した直後、辺りの集落について以下のように書いています)
For this mouldering hamlet represents all that remains of the million-peopled streets of Yoritomo’s capital, the mighty city of the Shogunate, the ancient seat of feudal power, ……
この朽ち果てた集落は、頼朝の都である幕府の強大な都市、封建的権力の古代の本拠地であった百万人の人々が行き交う街並みの名残り……
その源頼朝をよく知るハーンが、鎌倉を訪れていながら鶴岡八幡宮について一言も触れていないのは、まったく不思議と言わざるを得ません。考えられることは、①鶴岡八幡宮には実際に立ち寄っていない。②立ち寄ったが、何らかの事情で、それを書かなかった。のいずれかでしょう。それを考察するに当たって、まず当時の状況を考慮する必要があります。
2.神仏分離令と廃仏毀釈
鎌倉の鶴岡八幡宮といえば、現在は神社として有名ですよね。八幡宮にお参りした人は、(私もそうですが)みんな柏手を打って神様を拝んでいます。つまり神道の社です。
ところが、明治の神仏分離令が発せられる以前は、鶴岡八幡宮寺という寺院でした。というと驚かれる方もいるでしょうね。でも、昨年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で、源実朝を暗殺した公暁は八幡宮寺の別当でした。別当というのは組織の最高位の長官です。当時の八幡宮には神道の神官もおりましたが、神道は仏教を守護する脇役で、仏教の僧侶が統括していたのです。公暁は僧侶でしたよね。京都で仏道修行して帰ってきた公暁は、政子のはからいで八幡宮の別当(長官)に任じられたのでした。そのように、鶴岡八幡宮は創建当時から神仏習合ながら、仏教が主体でした。ところが、明治元年、明治政府は、神道国教化の方針により、それまで広く行われてきた神仏習合を禁止する「神仏分離令」を発しました。これは「仏教排斥」を意図したものではなかったとされていますが、これをきっかけに全国各地で寺院や仏具の破壊を行なう廃仏毀釈運動が起こり、鶴岡八幡宮も、その例外ではありませんでした。
廃仏毀釈
その実態は『神仏分離史料 第三巻(巻下)』の「明治初年の鶴ヶ岡八幡」に記されています。
『神仏分離史料 第三巻』
以下は上記史料中の、「鎌倉の宝戒寺住職、静川慈潤氏談」から抜粋させていただきました。
(明治元年の)翌二年に、公令により諸国神社の別当なる寺院の僧尼は復飾(注1)するこことなり、それらの寺院の仏像仏器を焼棄したり、破壊したり、往々にして粗略の挙があったことを聞きました。
注1:一度僧籍にはいった者が、もとの俗人にもどること。還俗(げんぞく)すること。
(中略)
(静川慈潤氏の師僧、澄海によれば)当時当社(八幡宮)の十二坊(注2)の社僧は、皆復飾しました。彼等は神奈川県庁から布告を聞いて直に復飾し、自ら仏像仏器を放棄し、本社門前に「僧尼不浄の輩入る可からず」と掲示した。その激変の態度は何人も驚いたことでありました。
当時社僧の輩、節操もなく、信仰もなき激変の態度を見聞して、大いに憤慨いたしました。
注2:源頼朝の創建した鶴岡八幡宮寺の社役を務める僧侶である供僧が、当初は八幡宮の北西に二十五の住坊を設け鶴岡二十五坊といわれていたが、文禄年間には十二坊となり明治維新まで続いた。
(中略)
数百年以来の神事は、皆仏教関係の者に依って行われたものである。彼等の言動は先祖を侮辱し、恩義を忘却し、実に宗門の大罪人である。
(中略)
神奈川県庁から、屡々督促があって、仏教関係の堂宇等を速に取除くべしとのことで、十二坊の社僧の復飾した新社司(神官)等が、相共にその取除きに奔走しました。
当時の諸堂宇等(弁財天祠、仁王門、護摩堂、経蔵)は、皆破壊せられましたが、経蔵にあった一切経は、浅草の観音に移されました。護摩堂の向側に、多宝塔がありました(これも破壊)。十間四面の大塔で、鎌倉の三名物の一と呼ばれたものであります。即ち一は大仏、二は大塔、三は大鳥居で、
(中略)
多宝塔(大塔)の右少し斜に方り、鐘楼がありました。梵鐘は三代将軍家光の寄附せられた名器でありましたが、鉄槌で打々破壊せられた音響は、五十年後の今日、尚ほ拙僧の耳底に残って居る心地がいたします。古道具商が買取って、鋳潰し、純金数斤(注3)を得たといふことであります。鐘楼の右更に斜に方り、十間四面の本地堂があって、本地薬師如来を安置せられてありました。名越の安養院に遷すことになりましたが、遂に建築されませんでした。(中略)
注3:1斤は約600g
廃仏毀釈前の鶴岡八幡宮境内絵図
破戒される前の大塔(多宝塔)、鐘楼、経蔵などが描かれています。
諸堂宇は十余日間に悉く破壊せられ、古木材として売払われました。今日尚ほ当地の町屋に、その古木材が用いられているのが見られます。本社殿の神体は僧形八幡の石像でありましたが、取出されて後、如何にせられたのかよく知りません。愛染明王等も如何にせられたのかよく知りません。仁王の像は今寿福寺に存してあります。
宝物は種々ありましたが、弘法大師の筆と伝ふる紺地金泥の大般若経六百巻を六軸に細書したものがありました。横浜付近の富豪の手に帰したとのことで、後高野山に寄附せられたとも聞きましたがよく知りません。(以下略)
大塔(多宝塔)横浜開港資料館蔵
廃仏毀釈前の写真と推定。
大塔(多宝塔)横浜開港資料館蔵
屋上の相輪が外されている。神仏分離令直後、取り急ぎ仏教の象徴である相輪だけ外したのか?
その他の廃仏関連写真は「日本の塔婆」相模鶴岡八幡宮寺大塔 に掲載されています。
拝殿(神仏分離令後に本殿側から現在の舞殿の方角を撮った写真と推定)
左の更地に大塔(多宝塔)や鐘楼があったと思われる。樹木の根もとにあるのは構築物土台の残骸か?
3.ハーンは廃仏毀釈後の鶴岡八幡宮をどう思ったか?
ラフカディオ・ハーンという人は日本文化を愛し、仏教、神道に精通し、その一方で西洋近代文明には批判的でした。ときに(日本人の私が)面映ゆくて赤面するくらい、日本文化や日本人を賞賛しながら、日本が西洋近代化する兆しについては残念がる人でした。そんな彼が鶴岡八幡宮の廃仏毀釈の実態を知ったらどう思うでしょう。ハーンのガイド兼通訳として同行していたアキラは、仏教に精通した学僧ですので、おそらく鶴岡八幡宮の惨状をよく知っていたはずです。それをハーンに伝えれば、彼の反応は、ある程度想像がつきます。私の勝手な憶測ではありますが、廃仏毀釈の愚行を嘆くとともに、当時、西洋近代化を推進していた明治政府に反感を抱いたことでしょう。そもそもハーンの来日の目的は、伝統的な日本の素晴らしさ、美しさを紀行文に書いて、西洋に紹介する事でした。そのため、もし八幡宮を訪れていたとしても、荒廃した八幡宮を紹介したいと思うはずはなく、明治政府への批判も書きたくはなかったでしょう。ハーンは美しい伝統的日本を西洋に紹介したかったのですから。
4.『Glimpses of Unfamiliar Japan』に書かれなかったこと
『Glimpses of Unfamiliar Japan(知られぬ日本の面影)』に、鶴岡八幡宮のことが書かれていない理由は、あくまで私見ですが、前述の通り、廃仏毀釈の惨状を書きたくなかったからだと思います。(ラフカディオよ、もし違っていたら、化けて出てきて弁明してくれ!)
そして、『Glimpses of Unfamiliar Japan』には、他にも、書かれていない不思議な箇所が、いくつかあります。「書かれていない」ところは、「見なかった」「何も無かった」とは限りません。何かしらの理由、訳があって書かなかった、いや、「書けなかった」のではないかと私は思っています。そんな「面影」の「影」の部分も探りながら、今、小説『ラフカディオの旅』※を書いています。
※後日追記
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