1.鎌倉のこと

切通し(7)―名越(その1)―

鎌倉と三浦をつなぐ道「名越」

 おまたせしました。いよいよ「切通し」シリーズの最終章「名越」です!
 今回は、ご紹介したいことが多岐にわたり、本題から外れる(脱線する)場面もありますので、それらについてはリンク先でご紹介することとします。
  さて、「名越」ですが、『新編鎌倉誌』では次のように記しています。

 名越切通(ナゴヤノキリドヲシ)は、三浦へ行く道也。此の峠、鎌倉と三浦との境也。甚だ嶮峻にして道狹し。左右より覆ひたる岸二所(フタトコロ)あり。卑俗大空峒(ヲヲホウトウ)・小空峒(コヲホウトウ)と云ふ。峠より東を久野谷村(クノヤムラ)と云ふ。三浦の内也。西は名越、鎌倉の内なり。

 鎌倉と三浦を結ぶ道であること。大空峒(ヲヲホウトウ)、小空峒(コヲホウトウ)という、切り立って狭まった所がある、と言ってますが、まずは現在「名越切通し」と言われている辺り全体を見てください。


「名越切通し」は、ざっくり言えば、鎌倉(大町)と三浦(逗子)を結ぶ道です。その道中に多くの遺跡があるのですが、中でも非常に象徴的な「まんだら堂やぐら群」をタイトル写真にしました。そして『新編鎌倉誌』の言う「大空峒」とは、おそらく第一切通で、小空峒とは第二、もしくは第三切通ではないかといわれています。大町口から入って亀が岡団地口、または小坪階段口へ出るルートを、この記事では仮に第一ルート(青色)、法性寺口へ出るルートを第二ルート(ピンク色)と呼ぶことにします。いわゆる「名越切通し」といえば、主に第一ルートを指すことが多いようです。

■第一ルートと「まんだら堂やぐら群」


右へ行く道が「大町口」です。(地図①)


 大町口から見える、この煙突は名越クリーンセンター(ごみ焼却場)のものですが、付近には火葬場もあり、また切通し内には「まんだら堂やぐら群(墓)」もあります。名越は中世から現代までを通して葬送の地なのです。そんなこともあって、スピリチュアルな場所(心霊スポット?)としても有名になってしまいました。(地図①)


 大町口から見おろした写真。JR横須賀線が切通しの下に潜りこむように掘られたトンネルへ入ってゆきます。(地図①)


 これは、15年前(2005年)の同付近から撮った写真ですが、切通しの入口(大町口)の下にJR横須賀線が潜り込んでゆく様子が見えます。鎌倉から逗子へ行くために、古のころは峠を越える道しかなかったので「難越え」が訛って「なごえ=名越」となったという説もありますが、現代ではトンネルを掘ったので、電車ならばわずか5分で行けるようになったのです。(地図①)


 大町口にある道祖神(地図①)


 大町口から入ると、すぐに急峻な山道が始まります。(地図②)


 これは敵の侵入を防ぐ置石なのか? それとも地震、地殻変動による落石か?(地図②)



 第三切通し付近(『新編鎌倉誌』の言う小空峒か?)(地図③)


 ここで、ようやく「国指定史蹟 名越切通し」の標柱がありました。(地図③)



 同じく、第三切通し付近。(地図③)


 まんだら堂やぐら群へ向かう岐路。「本日公開中」の札が出ていますので、今日は正々堂々と入れます。正々堂々? 後ほどご説明します。(地図④)


 まんだら堂やぐら群入口。ちゃんと扉が開いてますね。(地図⑤)


 岩壁に沿って大小150穴以上のやぐらがあります。(地図⑤)

「まんだら堂」という名称は文禄3年(1594年)の検知帳に初見があるものの、どんな建物であったか詳細は不明。しかし発掘調査で柱穴も見つかっていることから、やぐら前面の平地に何らかの建物があったと推定されています。「やぐら」は鎌倉時代後半(13世紀末頃)から造成が行われ、室町時代の中ごろ(15世紀いっぱい)まで供養に使われていました。発掘により、火葬をした跡も見つかっています。また、斬首された人の頭蓋骨が発見されていることから、刑場としても使われていたようです。(以上、逗子市教育委員会資料より) 

 当ブログの「大仏坂」でも、(私見として)同じことを述べましたが、切通しには「やぐら」や「刑場」があった例が多くあります。執権北条泰時の時代に鎌倉市街に墓、法華堂を建てることが禁止された(と推定されている)ことが主な理由とは思いますが、もうひとつの理由として、ジョニー・デップ主演の『パイレーツ・オブ・カリビアン』で船の入ってくる港の入口に、見せしめのような遺体(骸骨?)が吊るしてあったように、古今東西、集落の入口には「侵入者への警告」、「魔除け」のような意味合いで遺体を晒したのではないか? と思えてしまいます。(私得意の憶測、妄想ではありますが……)


 ひとつの写真に納まらないほど、延々とやぐらが連なっています。(地図⑤)


 五輪塔は供養のために置かれたものですが、死者の魂がたたずんでいるかのように見えてしまうのは私だけでしょうか?(地図⑤)


 やぐら群前の平地から火葬の跡が発掘された、という説明版です。
 ここで火葬が行われたということは、あの急峻な峠道を歩いて遺体を運んだということでしょう。ふと、古に想いを馳せると、葬送はどのように行われたのだろうか。荼毘の煙は千の風になって……。私の妄想は延々と続きます。(地図⑤)


 じつは、このまんだら堂やぐら群のすぐ近くに現代の火葬場があります。名越が中世から現代まで続く葬送の地である由縁です。私自身も今は鎌倉に住んでいます。ということは、この中世から続く葬送の地で、私も最後は荼毘にふされることになるのかもしれません。はたして私は千の風になれるのでしょうか……。この葬送の地に立つと、そんな思いにとらわれてしまいました……。(地図⑤)


 この日、訪れたときは昼間でしたが、夕刻に訪れると、それなりにムードがあります。でも、現在は公開日、時間が決まっていて16:00迄ですので、そういうムードに浸ることはないでしょう。(そのほうが良いと思います……。はい、16:00迄で正解です。私の経験から……)(地図⑤)


 手前の高台(展望広場)からの遠景。(地図⑤)

 以上は、今回(2020年10月)取材時の写真ですが、私は15年前(2005年)に初めてまんだら堂を訪れました。その時は、名越切通しについての知識、下準備が不十分であったため、まんだら堂やぐら群については名称ぐらいしか知りませんでした。一人ぶらぶら山道を歩いていて、やぐら群をとつぜん目の当たりにしたときの感動と興奮は今でも忘れられません。以下は、その時の写真です。


 かつて、やぐら群が未整備だったころ(2005年)の入口で閉まっていますが、夕刻に撮った写真です。(地図⑤の2005年当時)


 入口の注意書き(地図⑤の2005年当時)。つまり、発掘調査も済んでいないし、未整備なので「現在閉鎖」ですよ、ということ。あくまで「閉鎖」であって「立入禁止」とは書いてありません。


 扉の脇も鉄条網で封鎖(ロックアウト)されていましたが、何としても見てみたいという衝動を抑えきれず、遺憾ながら侵入、いや、自己責任で封鎖を突破しました。私は、封鎖突破には慣れているのですが、鉄条網で血だらけになりますので、絶対に真似しないでください。このとき同行者は無く、私一人の犯行でございます。(地図⑤の2005年当時)


 やぐらの周囲は蔦が絡みついて、おどろおどろしい雰囲気がありました。そして曼殊沙華(彼岸花)の赤い色が美しくも妖しい気配を漂わせていました。
 ジャングルの中でアンコールワット遺跡を初めて発見した人のような気分とでも申しましょうか、夢中で探索して回ったのですが、ふと気づくと陽が傾き、夕闇が迫っているではありませんか。何やら見えるはずのないものが見えるような気がして怖くなり、逃げるように、その場を離れました。「千と千尋の神隠し」の始まりの夕闇迫るシーンを見るたびに、この時のことを思い出します。もっとも、昼のまだ明るいときは「天空の城ラピュタ」の天空の廃墟城のような趣もありました。(地図⑤の2005年当時)

 後年(2019年)、北陸の金沢を訪れる機会がありました。下調べも十分でなかったため、その時もたまたまだったのですが「泉鏡花記念館」を訪れました。その時のことですが、泉鏡花名越の関係をテーマにした展示物を見つけ、不思議な縁を感じたしだいです。(この「不思議な縁」に興味のある方はリンク先をご覧ください
 その後、泉鏡花の作品『春昼』を読んでみたのですが、驚いたことに、前述の15年前(2005年)に「まんだら堂やぐら」を訪れ、夕闇が迫ってきたときに私が感じた経験と『春昼』のイメージが妙に重なったのでした。

 さて、まんだら堂やぐら群についてはこれくらいにして、第一ルートの出口(亀が岡団地口)へ向かいましょう。


 ここは、「名越切通し」の中で最も狭まった所です。(地図⑥)


 道幅の感覚を視覚的にお伝えするため、後日別撮りした写真。(地図⑥)
 この第一切通が『新編鎌倉誌』の言う大空峒(ヲヲホウトウ)だと考えられています。中世に想いを馳せれば、ここで外敵の侵入を阻止し、一網打尽にするためだったか? と妄想したいところです。ところがここで、ひとつ気がかりな資料を目にしてしまいました。というのも、私は、この「切通し」シリーズをご紹介する中で、鎌倉の神社仏閣は、そのほとんどが江戸時代の再建で、中世の姿を忠実にはとどめていない。「やぐら」や「切通し」など鎌倉の三方を囲む山沿いにこそ中世鎌倉の痕跡がある、ということを述べてきました。しかし、この「名越」を調べてゆくうちに、その私の信念(妄想?)が揺らぎかねない考古学上の新たな評価もされはじめたようなのです。少々込み入った内容で、ここで、それについて論じていると、やや冗長になりますので、考古学的詳細にご興味のある方は補足1をご覧ください


 第一切通しの右横に上に登ってゆく小路があります。(地図⑥)


 上がったところに三畳間ほどの小さな平地があります。(柵は史蹟観察用に設置されたもの)(地図⑥)


 下の道を見下ろすとこんな感じ。ここで待ち構えて弓を引けば、侵入者をほぼシャットアウトできるでしょう。私は、そういう目的で作られた防塁の類だと思いますが、考古学的評価は定まっていないようです。(後日別撮り。地図⑥)
 西部劇で、幌馬車隊が急峻な岩壁の谷間にさしかかると、岩の上にインディアンたちが姿を現し、一斉に矢を射かけてくるシーンがありますよね? ふと、そんな情景を思い浮かべてしまうのは、やはり妄想癖か……。

「第一ルート及びまんだら堂やぐら群」については、ここまでとし、続き(第二ルート)は、名越(その2)でご紹介します。

[名越(その1) おわり]
提供は『オリンポスの陰翳』の森園知生でした。

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