1.鎌倉のこと

切通し(6)―亀ヶ谷坂―

「亀ヶ谷」という名の由来に想いを馳せながら歩いてみました

亀ヶ谷坂(かめがやつざか)では亀が坂を歩いている姿をよく見かけます。というようなポップなお話は後ほどするとして、まずは古文献に登場する「亀ヶ谷」から見てゆきたいと思います。

古文献に登場する「亀ヶ谷」

吾妻鏡』には、
仁治元年(1240年)十月十日 庚子
前の武州の御亭に於いて、山内の道路を造らるべきの由その沙汰有り。安東籐内左衛門の尉これを奉行す。

とあります。
「武州(北条泰時)が山内の道路を作るよう指示した」ということですが、この記述の道が亀ヶ谷の切通しのことではないか、という説があります。しかし、「山内の道路」という言葉だけでは巨福呂坂のことかもしれませんし、漠然としすぎています。また、建長三年(1251年)十二月三日の条で鎌倉幕府が商業地域(市)を指定するとともに、運用規則のようなものを定めた記述(切通し(3)―化粧坂― の冒頭を参照方)の中に「亀谷辻」という地名が出てきますが、これもどこにあるのかは、この記述だけではわかりません。
 次に、新編鎌倉誌』と『鎌倉攬勝考ではどうでしょう。

新編鎌倉志
亀谷坂は、扇谷と、山内との間也。南は扇谷、北は山内也。寿福寺を、亀谷山と号して、亀谷中央なり。此所は亀谷へ行坂の名なり。亀谷坂を登って扇谷坂を下れば、左に勝縁寺谷と云うあり。昔し寺有と云。今は此谷に、天神の小祠あり。山内の方へ行、左は長寿寺なり。


鎌倉五山第三位寿福寺


 寿福寺山門の扁額には「亀谷山」と山号が書かれており、『新編鎌倉志』の「亀谷中央なり。此所は亀谷へ行坂の名なり。」に符号します。

鎌倉攬勝考』(巻之一 切通坂)
亀ヶ谷坂 是は亀ヶ谷、扇ヶ谷辺より此坂を踰て山の内へ出ければ、巨福呂坂の路に合せり。

 現在「国指定史跡 亀ヶ谷坂」とされている扇ヶ谷と山ノ内を結ぶ道は、舗装され、付近には住宅もある生活道路ですが、一部旧道と思われる小道が分岐して行き止まりとなっている箇所もあります。「総合的、俯瞰的」に見れば(という、曖昧で便利な言葉を拝借すれば)現在の「国指定史跡 亀ヶ谷坂」は(ほぼ)『新編鎌倉誌』、『鎌倉攬勝考』に記述された「亀谷坂」と言ってよろしいかと思います。
 ということで、『吾妻鏡』の時代(中世鎌倉時代)のことは曖昧模糊としていますが、もともと「鎌倉七口」を定めたのは『新編鎌倉誌』、つまり監修総責任者である水戸の黄門様が(印籠をかざしたかどうかは知りませんが)「ワシがこう決めたんじゃ!」と仰ったので、ははあー、とひれ伏して従うしかないのです。

現在「国指定史跡 亀ヶ谷坂」とされている道

扇ヶ谷(鎌倉の内側)から山ノ内(外側)へ歩いてみた


岩船地蔵堂
頼朝の娘、大姫を供養するための地蔵堂と言い伝えられ、亀ヶ谷坂へ向かうランドマークでもあります。


住宅の裏手の崖には「やぐら」が見えます。


崖に沿っていくつもありますが、私有地内ですので詳細は確認できません。


この洞門の奥は「コートハウス」というマンションで、この裏側に旧道と見られる小道がありますが、現在は行き止まりになっています。


舗装された生活道路ですが、しだいに切通しの匂いが漂ってまいりました。


おや? こんなところに亀が……。まあ、その話はあとにしましょう。


はい、切通しですね。


うん、なかなかいい岩相ですなあ、とタモリさんなら言うかどうか……


おや? 何か目に入りましたが……。ま、いっか。先へ行きましょう。


切通し沿いに邸宅もあり、門へ上がる石段がところどころにあります。


切通しの出口(左)が鎌倉街道(巨福呂坂付近※)と合流したところ。
 ※「巨福呂坂付近」という曖昧表現の理由は「切通し(4)―巨福呂坂―で書いた通り明確にはわかっていないからです。
『鎌倉攬勝考』の「山の内へ出ければ、巨福呂坂の路に合せり
『新編鎌倉志』の「山内の方へ行、左は長寿寺なり」の場所です。(出口側から撮った写真なので「右」が長寿寺の山門です)

伝承に登場する「亀ヶ谷」

 さて、ここまでは古文献を手引きに辿ってまいりましたが、一方で「言い伝え(伝承)」といものがあります。文献にはないが「・・・のように云(言)われています」というものです。「亀ヶ谷坂」についても、次のようにいくつかの伝承があります。

①昔、一匹の亀がこの坂を越えようとしたところ、あまりにも急なので登りきれず、途中から引き返したので「亀返し坂」といわれていて、その後、これが訛って亀ヶ谷坂となった。


もしもし亀さん、どちらへ?
「ああ、しんど」

②上記①のように急坂を上り切れなかったが、引き返したのではなく、ひっくり返った、といもの。
(残念ながら、このショットは撮れませんでした。……というか撮り忘れた)

③上記①②の亀は、海から上がってきた亀である、というもの。

④上記①②の亀は建長寺の池にいた亀である、というもの。 


建長寺の池の亀(写真はイメージです)

⑤以上①~④とは異なり、昔、浄光明寺の池に住んでいた亀たちが、山ノ内の建長寺に参詣しようということになり、数千という亀達が連れだって山を越えたことから、そこが削れて亀ヶ谷坂になった、というもの。

 さて、「言い伝え(伝承)」とは、どこの誰だかわからないが、誰かが言ったことが、えんえんと伝わって、そのままの内容が伝わったものもあれば、いろいろに変化して伝わったものもあるでしょう。伝言ゲームのようにとんでもない内容に変化することもあったのではないでしょうか。ならば私が「お話」をでっちあげても、何も悪いことはない。後々、そのまま伝わるかもしれないし、いろいろに変化するかもしれない。まったく伝わらず消えてしまうかもしれない。どうなろうと構わないし、知ったことではありません。生命の遺伝子のように、突然変異しても面白いやら怖いやら……。

むかしむかし……



 むかし、むかしあるところに一匹のウミガメがいました。竜宮城の乙姫様のお使いで浦島太郎を探し出して竜宮城へお連れする、という大事なお役目を仰せつかっていたのです。ちなみに、この竜宮城の乙姫様、じつは江ノ島の弁天様の化身で、通称は「音ちゃん」です。(この詳細についてはラフカディオ・ハーンの見た江ノ島(3)の奥津宮の説明をご覧ください) 
 さて、浦島太郎を探すにも、ウミガメの手足はヒレになっているので陸を歩き回るには少々不便。なので音ちゃんの魔法で、建長寺のイシガメに姿を変えてもらったのでありました。 で、このカメ(本当は亀蔵という、ちゃんとした名があるんですが、音ちゃんも「カメ!」と呼び捨て)、えっちらこっちら、なんだ坂こんな坂、と歩き回っているのですが、浦島太郎は見つかりません。


「なんだ坂こんな坂」

 鶴は千年、亀は万年生きると言われていますが、浦島太郎に助けられたのは鎌倉時代でした。江戸時代には酒井抱一という絵師から、モデルになってくれと頼まれたこともありました。


「ちょいと、おめえさん、モデルになってはくれめえか?」なんて頼まれて、まあ断り切れなくてねえ……

で、こんな絵になったわけなんですよ。
「八方睨みの亀」酒井抱一(@江島神社奥津宮)

 そんなこともあったけど、明治、大正、昭和、平成になっても浦島太郎に出会えません。鎌倉時代から、まだ八百年くらいなんですが、音ちゃんは待ちきれず、そろそろキレかかっているらしい。ヤバいな、と思っていると、令和という時代になったばかりのころ、鎌倉の扇ヶ谷から山ノ内へ通ずる坂道で一人の男と出会いました。名を小森右京と言います。男の仕事は、えすえふ小説家という江戸時代の戯作者のようなものらしいのです。


「おやおや、これは亀さん、こんなところでいったいどうされたんです?」
 カメは、右京に、かくかくしかじか、と放浪の理由、身の上話をしました。するってえと、「ふむふむ。それはお困りでしょう」と同情してくれます。


「かくかくしかじか」の図


「ふむふむ。それはお困りでしょう」の図

 右京は親身にカメの話を聞いてくれました。そして、浦島太郎はとうに死んでしまっているだろうから、会うためには「バックトゥーザ過去」しかないと右京は言います。そして、
「私はタイム・マシンは作れないが、SF小説家なのでタイム・トリップの話なら作れる。私がお話を作ってさしあげるから、それを音ちゃんに聞かせて納得してもらいなさい」と言うのです。
 小森右京の作った話というのは、タイム・マシンに乗って、カメが海辺で虐められ、浦島太郎と出会った鎌倉時代に戻り、そこで浦島太郎を探したところ、うまいこと再会できたので竜宮城へ連れてきました、というものでした。
「でも、それって、所詮、お話だけじゃないですか。浦島太郎さんはどうするんです?」
 右京は、鼻の下をのばして言いました。
「私が浦島太郎さん役を演じてさしあげましょう」
 なにやら、音ちゃんは足がすらっと長くて、小顔の目がパッチリした美人だと思い込んでいるらしい。
 それでも話はまとまって、カメは右京を連れて竜宮城へ帰りました。(竜宮城への入口は江の島の奥津宮になっているという経緯は「ラフカディオ・ハーンの見た江ノ島(3)」の奥津宮の説明をご覧ください)

 音ちゃんはたいそう喜び、右京を浦島太郎と思い込んで歓待しました。右京の方も、自分が勝手にイメージしていた音ちゃんとは少し違っていたけれど、小股の切れ上がったなかなかの美人。すっかり竜宮城が気に入りました。毎日毎日、美女に囲まれて歌や踊りの接待漬け。まさに酒池肉林の極楽。竜宮城は時間の流れていない異次元空間。いつまで遊んでいても歳をとらない。そんな天国のような所とはいえ、右京の感覚で百年も酒池肉林にどっぷり浸かっていれば、いささか飽きてきました。
「ねえねえ音ちゃん、ぼく、そろそろ帰ろうかと思うんだけど」
 右京は、肩に寄り添う音ちゃんに言ってみます。すると音ちゃんは、「カメを助けてくれたお礼はできたし、じゃ、そうすれば。これで貸し借りなしね」と、あっさりOK。
「これはお土産の玉手箱。でも、絶対に開けちゃダメよ」
 それは右京だって百も承知。開けたとたん白髪の爺さんになったんじゃたまらない。
 音ちゃんの投げキッスに送られながら、カメの甲羅にまたがって、さっそうと帰ったのですが、音ちゃんの絶対命令で、帰る所は、カメを助けてくれたその時代。ということで鎌倉時代に戻ることになってしまいました。場所は右京とカメが出会った鎌倉の扇ヶ谷から山ノ内へ通ずる坂道。で、そこを右京が「亀がやっと帰った坂」をはしょって「亀ガヤット坂」と言ったら、やがて隣近所、子々孫々に伝わり、少々訛って「亀ガヤツ坂」になったんだとさ。
 おしまい。

 え? 右京はどうなったか? って?
 ですよね~。令和の時代から鎌倉時代へ飛ばされちゃったんですからね。
 じつは、鎌倉時代の庶民の食べ物なんて現代人には想像もつかないほど貧素なものらしいんですよ。当時の特権階級である武士ですら、玄米に梅干し、干し小魚がせいぜい。醤(ひしお)で煮たゴボウなんか大御馳走。酒池肉林の極楽から庶民階級になってしまった右京には耐え難い生活です。竜宮城が恋しい。
オトちゃ~ん!
 と叫んだかどうか知りませんが、まあ、奴も、一時は(いや百年も?)いい思いしたんだからええじゃないか、というのは傍で見ている我々。本人はたまったものじゃない。
「もう、こんな生活イヤ! そうだ、早いとこ爺さんになっちまえば欲望も萎え、耐え難い時間も短くてすむ。だったらアレがあるじゃないか」
 そう言って、仕舞ってあった玉手箱を持ち出し、思い切って蓋を開けました。
 するとあんのじょう白い煙がもくもく出てきて……、あとは皆さんご存知の通りになったんだとさ。
 今度は本当に「おしまい!」

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