中世の面影を追って七口を歩く
鎌倉は三方を山に囲まれ、ー方が海という天然の要塞であると、よく言われます。その要塞の城壁の門となる道を切り開いたものが「切通し」です。でも城壁の門であれば、ただの通行路ではないでしょう。外敵の侵入を防ぐための防御施設や関所としての役割も果たしたに違いありません。鎌倉は幕府が滅亡した時、あるいは、その後の荒廃で神社仏閣等の建物は焼失したものが多く、ほとんどが後世の再建です。ですので残念ながら、鎌倉市街では中世の姿を見つけにくいのですが、山沿いの「切通し」や「やぐら」は焼失しないために中世の面影が残っているのです。『新編鎌倉誌』では「七口」と称して、七つの切通しを紹介していますが、私は「中世の面影」を追って七口を歩いてみました。
(以下は、過去に掲載した「切通し」各記事へのリンク集です)
1.切通し No.0 -釈迦堂口-
『新編鎌倉誌』の七口には入っていませんが(なのでNo.0)、独特で壮大な景観を持つ切通しです。しかし残念ながら東日本大震災のとき一部が崩壊し、現在は通行止めになっています。その様子をレポートしてきました。
2.切通し(1)―朝夷奈―
鎌倉から三浦半島を越えて東京湾に面した六浦に出る六浦道(むつらみち)の峠越えです。
3.切通し(2)―極楽寺坂―
鎌倉の長谷から極楽寺の前を通って稲村ヶ崎に出る道で、新田義貞の鎌倉攻めでは激戦の地にもなりました。そんなこともあって今は生活道路なのですが、夕暮れ時になると少々怖~いムードに包まれます。
4.切通し(2)の2 ―極楽寺坂とラフカディオ・ハーン―
明治23年に来日したラフカディオ・ハーン(小泉八雲)が、どうも鎌倉の極楽寺坂を訪れたらしい、というお話。
5.切通し(3)―化粧坂―
鎌倉から武蔵の国へ出る鎌倉街道。その源氏山に登る坂を化粧坂(けわいざか)と言います。なぜ「化粧」なのかについては様々な説があります。
6.切通し(4)―巨福呂坂―
「一遍上人聖絵」に描かれている有名な場所ですが、残念ながら現在は近代化の波に洗われ、中世らしい景観は薄れつつあります。この鎌倉巨福呂坂が現在のどの辺りなのか、中世の面影を追ってみました。
7.切通し(5)―大仏坂―
鎌倉大仏坂切通しも、古文献に登場するものの、現在「大仏隧道」の脇を通る古道(国指定史跡「大仏切通」)がそれに相当するものなのか、明確にはわかっていませんが、中世鎌倉の痕跡を探りながら歩いてみました。すると……。
8.―大仏坂― その2『大仏坂切通し殺人事件』
大仏坂切通しを歩いていて、私は道に迷ってとんでもない所へ出てしまいました。その経験から思いついたショートミステリーです。中世探索を一服してご笑覧ください。
9.切通し(6)―亀ヶ谷坂―
鎌倉亀ヶ谷坂は扇ヶ谷から山ノ内へ抜けて鎌倉街道へ接続する道です。歩きながら「亀ヶ谷」の伝承に想いを馳せてみました
10.切通し(7)―名越(その1)―
「名越」は、鎌倉から三浦(逗子)へ出る道です。「難越え」が訛って「名越」となったと云われるほど、険しい山が立ちはだかっていました。また、付近には「まんだら堂やぐら群」があり、この地は、中世から現代を通して葬送の地なのです。
11.切通し(7)―名越(その2)―
「まんだら堂やぐら群」を後にして、日蓮上人にまつわる伝承の残る「お猿畠の大切岸」を訪ねながら、法性寺口に至る道を歩いてみました。白猿ならぬ謎の黒猫に導かれながら……。