鎌倉の観光名所筆頭格の「源頼朝の墓」
■「源頼朝の墓」とは言うけれど……
「源頼朝の墓といえば、鎌倉の西御門の山裾にある、アレでしょ」と、一度でも訪れたことのある方なら仰るでしょう。そう、この記事のタイトルにある写真の石塔です。たしかにそうなんですが、この「源頼朝の墓」と云われている遺跡には、少々複雑な歴史があるのです。
■源実朝が和田の乱で隠れた法華堂は源頼朝の廟だった
建暦3年(1213年)に和田の乱が起きた時、将軍、源実朝(『春を忘るな』の主人公)は法華堂に隠れたと云われています(『吾妻鏡』の記述はコチラ 『春を忘るな』ではコチラ)。この法華堂とは源頼朝の廟(墓)です。信仰の厚かった頼朝が生前に建てた持仏堂を、死後に法華堂にしたとされています(この出典についての詳細はコチラ)。
法華堂とは、こんな感じの建物でしょう。
(頼朝の法華堂は現存しませんので、この画像はあくまでイメージです)
和田の乱が起きた時、実朝は急いで非難したのですから、大倉御所からそう遠くない場所にあったと考えられます。しかし、その大倉御所そのものが現存せず、明確にはわかっていません。(現在の清泉小学校の辺りとされていますが、詳しい発掘調査は行われていません)
①大倉幕府跡を示す碑(清泉小学校の角地)
周辺地図
↓ 赤枠内の拡大地図
清泉小学校の角にある「大倉幕府跡」(地図の①)を右に見ながら、真っ直ぐ北へ行くと、白旗神社(地図の③)と「源頼朝の墓」へ上ってゆく石段があります。
左に見える建物が白旗神社。奥へ続く石段が「源頼朝の墓」へ上ってゆくエントランス。
石段を上がると、皆さんがよくご存知の「源頼朝の墓」が現れます。
たしかに「源頼朝の墓」と称される石塔は存在します。では、この遺跡が、いつ頃、どのように作られたのか見てゆきたいと思います。
■「源頼朝の墓」の成り立ち
鎌倉時代初期の頃は、高貴な人が亡くなると、現在のような墓石ではなく法華堂(廟)が造られました。頼朝の場合は持仏堂(所有する仏像を安置する堂)だったものを死後に法華堂にしたとされていますが、遺骨が置かれていたかどうかは定かではありません。長い間(曖昧な表現ですみません)、頼朝の法華堂は現在の白旗神社の位置にあったと云われてきましたが、現在は赤星直忠氏の研究(『中世考古学の研究』有隣堂)により、現在の「源頼朝の墓」付近にあったというのが定説になっています。ただし詳細な発掘調査がされたわけではないので確定とは言えない、と私は思っています。
では、現在ある石塔が、どのような経緯で「頼朝の墓」とされたのか、見てゆきたいと思います。
『吾妻鏡』には寛喜三年(1231年)に頼朝の法華堂が北条義時の法華堂とともに焼失した(放火の疑い)と記述されています(『吾妻鏡』の原文はコチラ)。その後に、いつの頃からか「小さく簡素な墓塔」があったようですが、この出典は不明(私が調べ切れていないということ)です。
江戸時代も末期となる、安永8年(1779年)になって、島津家第25代当主で薩摩藩第8代藩主の島津重豪(シゲヒデ)が、現在の「頼朝の墓」とされる石塔を「修造」しました。(「小さく簡素な墓塔」のあった場所に石塔を再建したので「修造」とします)
「何で島津重豪が頼朝の墓を修造したの?」と思われますよね。
じつは、鎌倉幕府の御家人であった島津忠久は、『島津国史』や『島津氏正統系図』といった島津家に伝わる史料によれば、源頼朝の側室である丹後局(比企能員の妹)の生んだ子、つまり源頼朝のご落胤(庶子)であり、そのため頼朝から厚遇を受け、島津荘(薩摩を含む南九州地域)の地頭に任じられた、とされているのです。ただし、この伝承はいわゆる「偽源氏説」の類とされ、一般的には史実とはされていません。しかし、これをもって島津重豪は、島津家が源氏の末裔であることを世にPRするため、頼朝法華堂の名残りと考えられる「小さく簡素な墓塔」の東側に島津忠久の墓を造りました。そして同時に、「小さく簡素な墓塔」を大きな石塔に修造して「源頼朝の墓」とし、「頼朝公石塔及元祖島津豊後守忠久石塔道 安永八年乙亥二月薩摩中将重豪建之」の碑を建てたのです。(下の写真)
④「頼朝公石塔及元祖島津豊後守忠久石塔道 安永八年乙亥二月薩摩中将重豪建之」(頼朝公の石塔と島津家の祖、忠久の石塔を島津重豪が建てた)と刻まれた石碑
余談ですが、島津重豪という、この薩摩藩の殿様は、なにを隠そう大河ドラマ『西郷どん』にも登場した、渡辺謙演じる島津斉彬(ナリアキラ)の曽祖父にあたる人です。(とても興味深い人物で、この重豪が斉彬を可愛がって教育したお話を紹介すると、記事がもう一つ必要になるので、ここでは割愛します)
■「源頼朝の墓」に寄り添う毛利季光、大江広元、島津忠久の墓
さらに注意して見てゆきたいのは、島津忠久の墓(やぐら)の左隣に、大江広元の墓と毛利季光(スエミツ)の墓とされているやぐらが並んで存在していることです。
⑤左から、毛利季光、大江広元、島津忠久(以上を三公と称す)の墓とされるやぐら
島津忠久のやぐら横に立つ墓碑。「薩摩中将源重豪」と刻まれています。武家ではルーツを表す性として「源」や「平」を冠すことはよくあり、「源重豪」も特段奇異なことではありません。(徳川家康も源家康。北条氏は「平〇〇」と称している)
大江広本は、京の公家の出身ですが、頼朝に信頼されて鎌倉幕府の政所初代別当を務め、頼朝の片腕ともいえる文官です。「鎌倉殿の13人」の中でも執権に次ぐ実力者で、源氏三代の将軍も北条義時も、政務については大江広元に頼っていたと言ってよいでしょう。(守護、地頭を置くよう朝廷に申し入れることを、頼朝に進言したのも大江広元(『吾妻鏡』の記述はコチラ))
毛利季光は大江広元の四男となる鎌倉幕府御家人で、戦国時代の毛利元就の祖であり、長州藩主、毛利家へと繋がる人物です。
では、この二人の墓が島津忠久の墓の隣に並んで存在している経緯を見てゆきます。
文化14年(1817年)、長州藩士(家老)の村田清風は、毛利家の祖である大江広元と毛利季光に関する歴史資料を求めて、鶴岡八幡宮の別当坊、相承院、浄国院にある古文書や位牌の調査、旧蹟の発掘作業などを行いました。その結果、相承院の言い伝えに「忠久公之御墓之脇之ヤクラ広元公御墓所ト古来ヨリ申伝エ候」と筆記されたものがあったのを根拠として、現在の墓所を決めたとのことです。しかし、島津忠久の墓ですら、島津重豪が安永8年(1779年)に造ったものですので、「古来ヨリ申伝エ候」という、この「相承院の言い伝え」というものが、どこまで信用できるのか、私はいまひとつ納得できていません。
一方、毛利季光の墓は、八幡宮の西側にある鶯ヶ谷から出てきた墓の臺石を、広元の墓の脇に移設したと云われています。
⑥三公の墓へ上る石段の両脇に立つ長州藩の建造した石灯籠
向かって右の灯籠には「長藩■営相模國鎮成諸臣献之」と刻まれ(■は読めず)、「相模国の海防の任で来ていた長州藩士が墓前を整備し、この灯籠を献じた」とのことのようです。
向かって左の灯籠には長州藩毛利家の家紋「一文字三星」が刻まれています。
相模風土記(天保12年(1841年)成立)の「法華堂境内図」には、最左に頼朝の墓が描かれているとともに、上辺には島津忠久の墓(左)と大江広元の墓(右)が描かれていますが、現在の定説とは位置が左右逆になっています。また、毛利季光の墓が描かれていないのは、この絵が描かれた後に移築されたのでしょうか?(詳細は(私が)まだ調べきれていません)
1829年に成立した『鎌倉攬勝考』巻之七に掲載された「右大将(頼朝)の廟」絵には「頼朝の墓」と「島津忠久の墓」だけが描かれ、毛利季光と大江広元の墓は描かれていません。
ここまで見てきました通り、鎌倉時代の人物である源頼朝、島津忠久、大江広元、毛利季光らの墓とされているものは、いずれも江戸時代末期に造られたものです。当時(蛤御門の変以前)の薩長は仲が良かったのだ、という人(説明書き等)もいますが、私は逆に、ライバル意識むき出しで自家、自藩の正当性を競って主張し合った結果、鎌倉にこのような建造物が次々と造られたのではないかと思います。
■北条義時法華堂跡の発見
じつは、島津忠久、大江広元、毛利季光(三公)の墓に上ってゆく途中の高台(地図⑦)で、2005年(平成17年)に、来年(2022年)の大河ドラマの主人公である北条義時のものと推定される法華堂跡が発掘されました。
⑦北条義時の法華堂跡
発掘調査後は埋め戻されていますので、遺構のあった場所に沿ってロープが張ってあり、1辺が8.4メートルの正方形の三間堂であったと推測されています。(奥に見える鳥居の向こうに大江、島津、毛利三公の墓所へ上る石段がある)
『吾妻鏡』の元仁元年(1224年)六月十八日の条に「戌の刻前の奥州禅門葬送す。故右大將家法華堂東の山上を以て墳墓と為す」(頼朝の法華堂の東の山上に北条義時を葬った)と記載されています。
注)前奥州禅門は北条義時、故右大将家は源頼朝のこと。
この北条義時法華堂跡の発見は非常に大きな意味を持っています。発見された遺跡の位置と『吾妻鏡』の上記述を合わせると。明確でなかった頼朝の法華堂は、「ほぼ」現在の「源頼朝の墓」の付近と言えるでしょう。となれば大倉御所(大倉幕府跡)も、その南側一帯のどこか、ということになります。もちろん定説となっている清泉小学校を含めた一帯と言えるでしょう。(このように曖昧な言い方になるのは、私個人としては「横浜国大付属小・中学校校庭辺りかもしれない」(『春を忘るな』(1)で老考古学者の吉田教授が述べている通り)と思っているためであって、「清泉小学校の下が幕府跡である」と断じる方も大勢いらっしゃいます)
あとは大倉幕府跡の発掘調査が行われるのを待つ(願う)のみです。
■中世鎌倉の真の姿はどこに……
このブログの随所で述べていますが、中世鎌倉の建造物、構築物のほとんどは地中、つまり埋蔵文化財で、考古学的発掘によってのみ見えてきます。現在の鎌倉の町並み、建造物は、ほとんどが江戸時代に造られたものなのです。そんな状況で「武家の古都 鎌倉」というコンセプトで「世界遺産登録」を目指すことができるのか? といった問題については、小説『春を忘るな』の中(冒頭の2話と最終回)で老考古学者の吉田教授が述べており、私の考えを代弁してくれています。
ところが、この鎌倉にも『吾妻鏡』に登場し、かつ現存する貴重な中世鎌倉の構築物があるのです。次回は、それを記事にしたいと考えておりますが、この取材については準備と、その後の編集作業に相当の時間を要しそうなので、記事の公開まで少々時間が掛かるかもしれません。乞うご期待!(※)